千恵の眼

自分の人生の中で勇気づけられた言葉や日々の思いなどを綴っていきたい。

本当の自分を再発見する旅立ちへ

2022年。新年が明け、早や1月も終わろうとしている。正に光陰矢の如しである。

昨年末、数十年ぶりに鋸山に行ってきた。ロープウェイに乗り、三浦半島を眺望し、日本寺内を散策。日本一の石像31メートルの大仏様や地獄のぞきを見てきた。

新年早々には、東京湾観音(高さ56メートル)に、やはり数十年ぶりに行ってきた。
観音様の内部(胎内)は、子どもの頃に行った時とは大きく違っていた。

胎内のらせん階段は広くゆったりしており、20階までの各階には文殊菩薩など胎内仏が祀られていた。

強風の寒い日だったが、孫との良い思い出になった。

病は、自分に多くの気づきを与えてくれた

ガンの確定診断(2020年9月)を受けてから1年以上が過ぎた。
確定診断から3か月程度ホルモン療法を続け、その後、医師からは放射線療法を勧められたが、自己判断によりホルモン療法も放射線療法も断った。

現在は、玄米菜食や運動などの自然療法を行っている。腫瘍マーカーは、少し上昇しているが基準値以内にある。

自分は信じている。自ら治癒する力が人間の中には備わっていることを。
自らの自然治癒力や免疫力を高めることができれば、病は癒える。
それが命の本質だからだと。

病は自分自身に対する命からのメッセージのような気がする。

何故、病気になったのか。
病気の原因は何なのか。
自分自身の生き方はどうだったのか。

それらを考えなさいと。

そして多くのことを考えた。
病にならなければ、気づけなかった多くの事に気づきがあった。

病からのメッセージは、本の中や新聞記事の中、日常生活の様々な場面などで受け取れることがあった。


新年は、本当の自分探しの旅に出ようと思う。

メッセージからの様々な言葉や気づき

★「全てのことに時がある」旧約聖書の中の言葉。人生に起きる全てのことに相応しい 時がある。出来ないことではなく、出来ることを数える(町 亞聖)

★精神世界の迷路にも迷い込み、病は罪とネガティブに考えた時期もありました。でもそれは違いました。
 何事も心の受け止め方で変えられる、周囲ではなく自分が変わって、今という瞬間を精いっぱい生きることが大切なのだと、70歳を超えてようやくわかったように思います(湯川 れい子)

★何か事が起こると、人はそれまでの平凡な毎日がいかに貴重なものであったかに気づかされる。
 人生で出逢う様々な不慮の出来事は、当たり前がどれほど幸せなことかを知る機会であるともいえよう。

・大切なのは、事もなく過ぎていく日常のありがたさを噛みしめること。そして、そのうえで、日々を新たな気持ちで送ること。
 たとえ同じことのように思えても、まったく同じ毎日というのはありえない。

・心の持ち方や、やり方次第で、繰り返される日常の中に新しい発見や進歩や楽しみを見出すことがでがきるのである。
 昨日と変わらぬ朝と夜を迎えられることに感謝したい。

ブッダが示した「無常」の考え方ー状況は刻々と変化していくのだから、いつも同じ苦しみやつらさが続くわけではない。

だから、過剰に未来のことを心配したり、過去のことを後悔したりするのはやめて、今、ここに心を集中して、今やるべきことを前向きにやっていけば、いずれ状況も変化していきますよ。(精神科医 奥田弘美)

★私たち一人ひとりの中に賢い医師が宿っており、そしてその内なる医師が何をすれば良いのかを知っている(シュバイツァー

★治りたかったら 山下剛(医師)
私の起源を信じて
私の身と心をいつわらず
なるべく精一杯に
なるべく怒らぬこと
なるべく将来のことを心配せずに
なるべく成り行きにまかせて
なるべく呑気に
なるべく陽気に
なるべく楽しみ喜び
なるべくにっこりと笑うこと

その他にも、多くの言葉などが病からのメッセージとして、自分に届いた。

私達に必要な助けは、常に与えられているのかもしれません。

目に見えない叡智(自然の摂理、神の見えざる手、先祖の魂、スピリチュアルなど)を信じ、自分の内なる声に耳を澄ませて、今やるべきことに取り組んでいこうと思う。























 

 

 

 

 

 

 

健康って何だろう?

「鐘つけば銀杏(イチョウ)ちるなり建長寺夏目漱石
漱石の友人だった正岡子規はこの句を意識して、かの有名な
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んだと、読売新聞「編集手帳」に書かれていた。

 最近、読んだ本(神様を味方にする法則・小林正観)には、子規のこの句の裏話が書かれていた。

 夏目漱石は、松山の子規の家の一階に部屋を借りていて、子規は、その家賃で生活をしていた。しかし、そんな大きなお金が入ってくるわけではなかった。

 ある時、子規は漱石にお金を借りて、単身で奈良に旅をしたが、一日で全部使い果たしてしまい、漱石に電報為替を頼みます。それが郵便局に届くまで食べることができず、すきっ腹を抱え、郵便局の前で座り込んでいました。

 食べるものがないので、そこになっている柿を食べて、ひもじいところをしのいでいた時、法隆寺の鐘がゴーンとなって、隙間だらけのおなかに響いた。

その時に詠んだのが、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」とのこと。

どんな状況でも、それを笑顔で笑い飛ばすような子規の生き方。見習いたものだ。
(闘病生活が長く、脊椎カリエスで34歳死去)

散歩の中でふと思った。健康って何だろうか?と。

 田園の中を散歩する機会が多いが、途中、濱子山建暦寺があるので、そこに立ち寄りお参りしてくる。大きな銀杏の木も、葉が枯れ落ちてきているが、まだ、見ごろでもある。
 自分の健康、家族の健康、生きとし生けるもののすべてが幸せでありますようにと。お祈りをしている。

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建暦寺の大イチョウ

 先日、医療機関特定健診の結果を渡された。

 健診結果は、概ね基準値以内であった。健診値が基準値以内であればと思っていたので、健康である。と以前から考えていたが、どうも何か、しっくりこないものがある。

 そもそも、この基準値ってなんだろうか。疑問に思って調べてみた。

 この数値は、20~60歳くらいまでの健康な人の検査成績をもとに、上限と下限の2.5%ずつを除外したもので、残りの95%の人の数値が基準範囲とされているとの事。(以前は、正常値とされていた)

 自分の年齢では基準値がないということのようだ。

 健康をどのようにとらえるかは、個人の健康観の問題だろう。

 持病がない。検査数値が正常。美味しく飲食できるなど、健康を判断する要素はいっぱいあると思うが、病気であっても自分が何かをやろうとする意識を持って、心地よくできればそれは健康ではないか。

検査数値に一喜一憂しない。健康という病にかからない。これも健康であろう。
 
 






 


 


 







 

 

被曝者の思いよ届け!平和の女神に。

ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ 峠三吉

 峠三吉さんは28歳の時、被爆し,戦後、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表しました。この詩は原爆詩集の中の作品。

自分が中学生の頃、東京で原爆被災の展示会があった。

展示物の中に「飴細工のようになった茶色のビール瓶、アルミと思われる溶けた弁当箱」などが展示されていた。多くの人間が悲惨な最期を迎えた時間がそこにあった。
今でもその光景を鮮明に思い出す。

峠三吉さんは、平和運動の先頭に立つが、36歳でその生涯を終えた。

核兵器廃絶を訴え続けた坪井直(つぼいすなお)さん

先月、24日。坪井さんが死去された。96歳。
20歳の時、通学途中で被爆。全身に大やけどを負い、生死の境をさまよった。
その後、中学の教師となり、生徒に被爆体験を語った。

退職後、60歳を過ぎてから本格的に被爆者支援活動を開始。「被爆ヒロシマの顔」として、廃絶運動を先導した。

2016年5月、現職のアメリカ大統領が初めて被爆地を訪問したとき、被爆者代表の一人として平和記念公園オバマ大統領と面会。

握手を交わし、核兵器廃絶に向けて「ともに頑張ろう」と話しかけた。

坪井さんは被爆後、母によって救い出されたが40日間も意識不明だった。そして1年間、歩くことさえできなかった。

死が身近に迫り、死を徹底的に考えた。坪井さんの言葉

(WEB特集 坪井直さんに教えられたことから引用)

「隣近所の人が、原爆で死んでいく。(被爆後)あの1年の人間の死に方はすごいじゃけね。もう戦争は、終わっとるんで。それであってもね、死をね、先に考える」

「私はね、痛みつけられて生きてきましたよ。それでも、素晴らしかったと思うんですよ。死ぬる時は素晴らしかったなあって死にたいな」

被爆者としては、原爆投下は人類の間違ったことの一つじゃと。それを乗り越えて、我々は未来に行かにゃいけん」

日常生活の中で私たちは、戦争は身近なものではなく、いつも、毎日、平和な生活が送られていくと思って過ごしている。明日も、明後日も、1年後も。

平凡な日々を送れることは、多くの人の犠牲や努力があって、もたらされている。
このような機会に、戦争や平和を考えられたことに感謝したい。

坪井直先生、ありがとうございました。








 

 

 


 












 

 

 

 

白土三平先生、大好きな海で素潜りしているんですか

気のエネルギーを感じながら、散歩している。

宇宙から光のエネルギーが自分の身体に入ってくるイメージ。身体を極力ゆるめ、脱力し、腕をふり、丹田に意識を置きながらゆっくりと歩く。

自然と一体となり、心身が調和してくるような気がする。

一日の中で、自分にとって大切な時間である。

カムイ伝」などで知られた漫画家の白土三平先生死去
 
 先月、先生の訃報を新聞で知った。
訃報記事には、作品である「忍者武芸帳」や「サスケ」「カムイ伝」などの作品名とともに、千葉県の漁村に住み、アウトドアライフのエッセーも執筆した。と書かれていた。

 私の叔母がその漁村に住んでいたことがあり、一時、空き家となっていた叔母の家を先生は借りていたことがあった。

 海は目の前にあり、アウトドアライフを行うには最適な場所だったと思う。私もその漁村の生まれ。そんな関係もあり、先生ご家族とは少しばかりの交流があった。

 私は漫画家の先生だとは知っていたが、戦後漫画史に大きな功績を残したそんな有名な先生とは、訃報の記事を見るまでは全然知らなかった。

 偉ぶることもなく、漁民から愛された白土三平先生
 先生とお話をする時でも、何かをお願いする時でも、偉ぶることもなく、ごく自然に接してくれた人柄で多くの漁民から愛されていた。

 そんなエピソードが先生の著書「野外手帳・小学館」に垣間見ることができる。
 野外手帳から引用してみる。

「先生と言われるほどの馬鹿じゃなし」という言葉がある。
私の住んでいる房総の漁村では、私のことを先生と呼んでくれる人がいる。

飲み屋で「よう!先生よ!」なんていわれるとハッと客が振り返ったりして、実にやばいのである。

 先生と言えば、だいたい医者か学校の教師と相場が決まっている。あとは政治家か詐欺師ぐらいのものであろう。
ところが、この仲間へマンガ家も入れられてしまったのである。

 漁師たちは、陰で私のことをマンガと呼んでいる。私の女房も子供もすべてマンガである。つまり屋号ということになる。

「おめら方でよ!指名手配の爆破犯人、おら見るっけがよ!警察はあんでつかめねのかねえ!」
「ばか!あのヒゲはやしたがだっぺ!ありゃ、おめマンガださぁ!」というような塩梅である。

*多くの漁民との交流があり、その人柄を愛された先生は10月8日に、その後を追うように先生の弟で多くの作品で作画を手掛けた岡本鉄二さんも12日にお亡くなりになった。

心よりご冥福をお祈りいたします。






 

 

 

 

音読と気功の時間を生活の中で楽しむ

 最近、新聞を読む時や読書をするときなどに音読を心がけている。普段、何かをする時には意識せずに、黙読になっているので。

 黙読だとどうも情景が浮かんでこないし、何か身につかない気がする。

そこで、本棚から「金子みすゞ童謡集(ハルキ文庫)」や「教科書でおぼえた名詩(文春文庫)」を取り出し、音読してみた。
最初に音読したのは、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」高校の国語で暗記させられた詩。今でも諳んじることができる。

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ユウシ)悲しむ
緑為す繁縷ハコベ)は萌(モ)えず
若草もしくによしなし・・・・・・・・・・・・(略)

高校当時の懐かしい思い出と、詩の情景が浮かぶ。

「教科書でおぼえた名詩」の巻頭には、島崎藤村の次のような言葉がある。

ーすぐれた人の書いた文章は、それを黙読翫(がん)味するばかりでなく、ときには心ゆくばかり声をげて読んでみたい。
  われわれはあまりに黙読になれすぎた。文章を音読することは、愛なくてはかなわぬことだ。ー

 自分は、日常の中で文章を(文章だけでなく、日常生活も含めてかもしれないが)速く読もうとしてきた。ゆっくりでいいんだ。のんびりでいいんだと自分に、今、言い聞かせている。

音読の効果
音読の効果には、次のようなものがあると言われている。

①音読をすることで、気持ちが落ち着く、落ち着かせるセロトニン神経伝達物質)が多く分泌される。
➁ストレス解消。声を出すことでストレスホルモンが少なくなり、内臓の働きも活性化される。
③視覚と聴覚の両方を同時に使うことで脳が活性化される。

なるべく、音読の機会を増やしていこうと思う。気になる新聞の記事でもよいから。

音読で復活した元女子アナの寺田理恵子さん

 寺田理恵子さんはフジテレビ時代に「オレたちひょうきん族・1980年代」などのバラエティー番組に出演し、人気を博していました。

 その後、フリーになり、2000年からは仕事を離れ専業主婦として生活していましたが、父の死、母の認知症に夫の急逝が重なり、心身ともにボロボロに。

アナウンサーから14年もブランクがあったが、ラジオ番組の出演の機会を得てから、毎日「音読」トレーニングを始め見事に心身とも復活。そうした体験をもとに、今では、朗読教室を主宰。

「毎日音読」で人生を変える 寺田理恵子 さくら舎

 
 毎日、気功をしている。散歩のときなども。気功は生活の一部にもなっている。

 




 

 

 

 

 

 

 

 

散歩中の雑感 秋はもう間近

 病を得てから、健康のために散歩をする機会が多くなっている。病を得る前の風景と後では、見える景色が少しづつ違って見えるような気がする。

 散歩コースの路傍にコスモス(秋桜)が咲いている。帰宅してからコスモスを調べてみたら、原産国はメキシコで、コロンブスがメキシコからスペインに持ち帰ったところから始まったとの事である。

昭和期の俳人星野立子高浜虚子の次女)さんの有名俳句に星野立子さんの

「コスモスの 花ゆれて来て 唇に」があります。


 意味は、コスモスの香りを嗅ごうと思い顔を近づけたら風で花が揺れて唇についた。

コスモスを見ている情景が目に浮かぶ。

目に映る自然の風景は、日々の心持ちで変わるのかと思う。

散歩コースの中で、今、一番目につくのは、黄金色をした田園風景一色。
まさに「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」である。

この言葉は、俳句かと思いきや格言。

稲は、生長するとその重みで実(頭)の部分が垂れ下がってくることから、立派に成長した人間、つまり人格者ほど頭の低い謙虚な姿勢であるという意味の格言。

この田園風景も、少しづつ変化している、稲刈りが始まっている。

私が、子どもの頃の稲刈りは10月頃であったと思うが、現在の稲刈りは、稲の品種改良もあるのかもしれないが、年々、早くなっている気がする。

 稲作づくりなどの農業就業人口は年々、減少していると聞いている。減少の原因の一つは、若者の農業離れのようだ。食糧自給率が低い日本は、なんと食糧全体の約6割を輸入に頼っているようだ。

水田稲作が日本に伝わったのは、約3000年前と言われ、歴史的にも日本人の生活文化に大きな影響を及ぼしてきたと思う。

いつまでもこの伝統的な稲作文化が引き継がれていってもらいたい。
国も食糧安保などの面からも、稲作づくりなど農業部門に重点投資をすべきではないかと思う。

コロナの猛威は、私たちの身近に迫っている。憂鬱な日々が続くが、コロナが永遠に続くわけではないのだろう。個人でできる感染予防をしっかりやるしかない。

東日本大震災の時に、被災に会った人たちのための祈りの言葉として、宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」の詩が世界各国で朗読されたそうである。

この詩はなぜか読む人や聞く人の心に温かさを醸し出し、勇気を与えてくれるようだ。自分も、口ずさみ憂鬱な日々を乗り越えていきたい。

雨ニモマケズ宮沢賢治
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ嗔(イカ)ラズ
イツモシズカニワラッテイル
(以下略)

 

 

 

別れは世の無常。だからこそ、今というこの時間を大切に生きる

 先日、東明寺で姪の新盆供養があった。
 姪は2月16日、46歳の若さで私達との別れの旅についた。思いだせば悲しみがよみがえるが、一方で、日々、身近に姪を感じることもある。
 
 別れを惜しむのは、人生の常であろう。私の好きな詩人に島崎藤村がいる。
 高校の時、国語の授業で島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を暗記させられた。

「小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ」から始まるこの詩は、藤村29歳の時、長野県小諸の懐古園で詠んだ旅愁の詩。
 藤村の作品に興味を持ったのは、今思うとこの頃のような気がする。

 大学時代、「惜別の歌」を仲間と歌うことがあった。この曲は島崎藤村の詩「高楼(たかどの)」の詩の一部が歌詞となっている。

 この詩に、曲をつけたのが藤江英輔氏(中央大学卒)
 収集令状により、戦地に赴く学友へ惜別の情を込め、藤村の詩に曲をつけたものだそうだ。自分の母校の先輩が作曲したものとは、知らなかった。

 母校の卒業式などで歌い継がれているこの「惜別の歌」は、小林旭倍賞千恵子小鳩くるみさんたちがレコーディングしている。

 この「惜別の歌」の歌詞と哀惜のメロディーは、私の好きな曲である。

「惜別(せきべつ)の歌」島崎藤村作詞・藤江英輔作曲

遠き別れに たえかねて
この高殿(たかどの)に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣(ころも)を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目のいろも
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

島崎藤村の原詩「高殿(たかどの)」は、嫁に行く姉に妹が別れを告げる内容だが、「我が姉よ」を「我が友よ」に変更して作曲されたそうだ。

戦後、「歌声喫茶」を通じて全国に広まり、小林旭の歌でレコード化されたとのこと。

自分は、小鳩くるみが歌う「惜別の歌」が好きである。一度、聞いてみる価値のある曲だと思う。